Eternal childhood

すぅーーーーはぁーーーー

少し訂正

 

前回の記事「私の中の原則」は、

 

少し硬くて、火照ってて、わかりにくかったですね。

 

 

夜書いたのが原因かもです、テレ。

 

 

ただ子どもと関わる時の私の中の柱の一つです。

 

 

 

、、、もとい、

 

いくつもある柱というより、

 

「子どもは神聖な存在である」(前回の記事の内容です)

 

という幹があって、

 

 

そこからいくつかの枝が生えている、という感じです。

 

 

 

唐突ですが、

 

私は以前恐怖や不安から解放されたい、と思った時、

 

 

じゃどんなことになったら恐怖だったり不安なのか?

 

そして

 

そうことが起きたらどう対処すればいいのかをあらかじめ考えておこうと、

 

幾つかリストアップして、その解決法を自分なりに考えてみたところ、

 

シンプルにいうとこうなりました。

 

 

 

人生は、

 

「経験する」ためにある、

 

というところに落ち着きました。

 

 

例えば明日事故で目が見えなくなってしまったら、

 

目が見えない人の気持ちがわかる、

目が見えないという経験ができる、

もしかしたら新しい能力が開発されるかもしれない、

 

と思うと不安や恐怖はなくなりました。

 

 

例えば片足を失ったら、

 

例えば失恋をしたら、

 

それらも同様でした。

 

するとそういった不安から解放されて、

自分の望むことに集中できるようになりました。

 

 

また唐突に聞こえますが、、

 

私は14歳の時に兄を交通事故で失くしました。

 

そして16歳の時に同級生をやはり事故で失くしました。

 

 

二つの出来事は本当に突然のことで、

 

当時の私にはよく理解できていなかったのですが、

 

 

朝元気だった人が突然目の前からいなくなる可能性はいつでもある、

という思いは年々強くなりました。

 

 

そこからどう子どもと関係があるかというと、

 

 

子ども達も様々なことを経験したくて、

 

毎朝一点の曇りもない心で起きて、

目の前のことに夢中になり、

自分の心と身体を使って経験し、

 

新しい情報を無意識と意識、両方の領域にインプットしていきます。

 

 

小さければ小さいほど、

 

意識の領域は少なく、

 

その分ブロッックができないため、

 

ほぼ得た経験は無意識の領域にいきます。

 

 

 

 

つまり無意識の領域にいった部分というのは、

 

幼い頃に意識というフィルターがない頃に作られます。

 

幼い子どもは判断をしません。

 

大人のもつ良い悪いの判断はありません。

 

 

ただ彼らは深いところで自分の判断を持っています。

 

それはまだ生まれる前の名残、

 

身体を得る前にいた領域での判断です。

 

だから子どもは神聖な輝きを持っていて、

だから大人は無条件に彼らに惹きつけられるんだと思います。

 

 

カール・クーニッヒが、言っています。

 

子ども達は私たちが長い間帰りたいと恋焦がれる場所へ帰るための水先案内人です、

 

と。

 

 

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ちょっと「星の王子さま」の内容にどこか似ている気がします。